皆が東京はクレイジー パソナ代表

政財官界に太いパイプを持ち、国内外にビジネス・ネットワークを張り巡らせる人材サービス大手パソナグループ(東京)創業者の南部靖之グループ代表(71)は今、ひと月の大半を淡路島で過ごし、経営の指揮を執っている。



 新型コロナウイルス禍の2020年9月、淡路島への本社機能の一部移転を発表。社員約1200人を24年5月末までに移転させる計画だ。島内に整備したオフィスに「グローバルハブスクエア」と命名。同社の世界ネットワークの中核拠点とする決意を込めた。

 自身が妻と住まう自宅も島内に構えた。社員も、22年5月末現在、470人が移転を果たし、ひと月に2回の役員会は、島内で開催している。

 1月、南部氏を訪ねた。世界を股にかける経営トップとして、不便はないのだろうか。「全然」と軽快に言い切った。「僕に用がある人は、皆来てくれますから。皆が東京にいる、いなきゃいけないという思考はクレイジーですよ」。しょっちゅう海外にトップセールスに出かけるが、何の不都合もない、という。

■石油危機で起業、「減量経営」のニーズに合致

 南部氏が主婦の再就職支援を掲げ、起業したのは1976年。このころ、高度成長を謳歌(おうか)した日本経済は第1次石油危機の影響で、戦後初のマイナス成長に転落。原油価格は4倍に膨らみ、狂乱物価を招いた。

 多くの企業が赤字に転落。拡大路線から「減量経営」へかじを切り、75年は完全失業者が100万人の大台を突破。雇用不安が広がった。南部氏が起業したのも石油危機で就職口がなかったためだ。

 人材派遣を選んだのは、大阪・千里ニュータウンに仲間と開いた学習塾で、生徒の母親たちが「空き時間に働けたら」と話していたから。就職活動先で「電話交換や経理に時間単位で働く人がいたら雇いますか」と尋ねると、減量経営のニーズと合致していた。

     ◇

 それから半世紀近く。ロシアのウクライナ侵攻などで、日本は再び物価高騰にあえぐ。本社機能を移し、脱東京の先駆けとして注目されたパソナ。コロナ禍を経て、南部氏が描く「雇用創造の夢」とはなんだろう。

 原点は、95年の阪神・淡路大震災という。「あの震災がなければ、パソナは今、ただの人材派遣会社でしかなかっただろう」。よどみなく語り始めた。

■震災が原点、課題解決に事業の意義

 「懐かしいなあ。あの時は必死だったから…」

 1995年の阪神・淡路大震災後、パソナグループ代表の南部氏は、被災地で獅子奮迅の働きを見せた。

 「今のパソナの原点は、あの震災にあるんです。はっきり覚えてますよ、めちゃくちゃ悔しい思いをしたから。パソナにもっと力があったら、ってね。大きなテーマに取り組むためには、僕たち自身がもっともっと力をつけなくちゃいけない。よし、株式を上場させよう。社会的信用を得て、もっとスムーズに動けるようにしよう、って」

     ◇

 震災発生時、米国に拠点を置いていた南部氏は、故郷・神戸の被災を知るや、帰国した。成田空港から陸路、車で向かい、がれきの街に入ったのは4日後の21日のことだった。

 目にしたのは、公共職業安定所(ハローワーク)に連日列をなす人、人、人…。機能がまひした街で、失職の不安が広がっていた。

 仕事は、ある。しかし、職業紹介事業は国が担っていて、民間はほぼタッチできない。では、自分にできることは何か。被災者のための無料就労相談窓口「パソナワークレスキュー」を神戸、大阪、東京に開設しつつ、労働省に出向いた。

 当時、労働者派遣法が派遣を認める職種は、経理、受け付けなど16種のみ。失業者は職種など選んでいられない。職業紹介の民間開放と併せ、「時限立法でもいいから」と職種の拡大を陳情すると、「おたくは株式会社でしょ。しょせん営利目的なのでは?」と担当者に名刺を突き返された。

 「貴様、何だと。出ていけ!」。激高した南部氏は、自身が出向いた立場であることも忘れてドアを指さしたという。

■大物起業家、協力の輪広がる  

 派遣事業者ながら、雇用の創出にも取り組んだ。目を付けたのは、震災発生直前に経営不振で撤退した神戸ハーバーランドの西武百貨店跡の施設運営だ。

 パソナには当時、創業20周年に合わせて東京で新本社ビルを建設する計画があったが、震災直後の1月下旬、この資金を西武跡の施設運営に回すことを決断。同施設を所有する住友生命保険に後継施設の運営を申し入れつつ、さらなる資金集めに奔走した。

 キャッチコピーは「西武は南部に任せろ」。自身と共に「ベンチャー三銃士」と呼ばれた盟友、ソフトバンクの孫正義氏やエイチ・アイ・エスの澤田秀雄氏に加え、セガ・エンタープライゼスの中山隼雄氏、日本マクドナルド創業者の藤田田氏…。そうそうたる顔ぶれに呼びかけ、1週間ほどで20億円を集めてみせた。

 迅速な動きと熱意に、当初は百貨店誘致にこだわった住友生命もほだされ、施設は翌春「神戸ハーバーサーカス」としてオープン。西武の3倍以上の1300人を雇用した。

 南部氏はその後もさまざまな事業計画を打ち出す。神戸港の客船「コンチェルト」、被災商店主らにハーバーサーカスの売り場を格安で貸す「一坪ショップ」、音楽ドーム、水上レストラン…。5万人の雇用を掲げ、復興の青写真を描いた。

     ◇

 「力不足でしたね」。南部氏は振り返る。ドーム、レストラン事業は未着手に終わり、実際の雇用者数は3千数百人にとどまった。

 一方で、労働者派遣法は世界的な規制緩和の流れを受け、99年に職種を原則自由化。パソナはその2年後株式の上場を果たし、事業領域を広げていく。

     ◆

 失われた30年を検証する経済大転換。第2部は、南部氏の事業展開を通し、変容する社会とその行方に目を凝らす。

【パソナグループ】1976年に大阪・南森町で「テンポラリーセンター」として創業。世界14地域にネットワークを展開し、2022年5月期の連結売上高は3661億円、連結子会社数は66社、従業員数は2万3488人。

【南部靖之(なんぶ・やすゆき)】神戸市垂水区出身。関西大工学部卒。パソナグループ前身の人材派遣会社「テンポラリーセンター」を卒業1カ月前に創業した。

最終更新日:2/28(火)14:08 神戸新聞NEXT

引用:https://news.yahoo.co.jp/pickup/6455394

その他の新着トピック