三菱重工業は2月7日、長年にわたって開発してきた初の国産ジェット旅客機「スペースジェット〈SJ〉、旧MRJ)の開発を断念すると発表した。18年間に投資した資金は1兆円に上り、完成予定期日を6回延期。6機の試験機で延べ3900時間の飛行試験を行ったが、商業運航に必要な国の型式証明を手に入れることができなかった。同社の泉澤清次社長は、「型式証明の取得にはさらに巨額の資金が必要で事業性を見通せない」「開発に時間が掛かっている間に、機能や装備品の競争力が低下した」と説明。「準備と知見が足りなかった」と敗因を語ったが、三菱にとっても、日本の産業界にとっても、逃した釣果は、あまりにも大きい。(航空アナリスト 杉浦一機)
◆20年前の静かな興奮
振り返れば、2003年5月に三菱重工が初の国産ジェット旅客機の開発に取り組む意向を表明した時には、日本列島は静かな興奮に包まれた。国民は「国産旅客機YS-11に次ぐ日の丸ジェットに乗れる」と素直に喜んだが、国内航空機業界の関係者には、いよいよ三菱が決断したかと、安堵感さえが広がっていた。
というのも、国産ジェット旅客機の開発は、航空業界の半世紀にわたる課題とされてきたが、具体的な行動には結び付かなったからだ。YS-11が1971年に生産を終えてから、開発案は何度も浮上したものの、業界挙げての技術と知見の結集と巨額の資金が必要で、リスクも大きかったことから、肝心の事業主体が現われなかった。業界は「YSと同様に国主導で進めるべき」と主張し、通産省(当時)は「民活の時代だから民間主導で進めるべき」とボールの押しつけ合いが繰り返され、ペーパープランの域を抜け出すことができないでいたのだ。
だが、この間に航空機業界の事業構造は大きく変化していた。戦後の航空機業界は安定した需要で高いシェアを持つ防衛需要を基盤に、徐々に拡大する民需が加わることで産業規模を拡大してきた。だが、世界の冷戦構造の終結に伴い、防衛関連の売り上げは減少に転じる。民需の大部分を占めたのは他国メーカーの下請けである部品ビジネスで、幸運にも恵まれて、売り上げこそ増加したが、納入単価は低く抑えられて収益性が低い上に、継続性への不安も拭えない。業界の安定的発展のためには、自主的に采配できる完成機ビジネスが必要だったのである。
日本全体の産業も、厳しい状況にあった。かつて世界の市場をリードした家電製品や造船は王座を奪われ、自動車産業も激しく追い上げられた。しかし、航空機は高い技術レベルが必要な産業であり、競業国が少ない上に、部品点数が約100万点(高級乗用車は約3万点)と桁違いに多いこともあって他産業への波及効果は大きく、モノづくりを得意とする日本の次世代産業に相応しい業種だ。
ただし、航空機事業は、機体の開発と販売やアフターサービスの環境整備に多額の資金が必要になる上に、代金の回収に時間が掛かることから、長期的な事業体制が求められ、新規参入が難しい分野でもある。
◆夢を広げたハイテク機
そうした状況にあって、未来の成長事業として期待した三菱重工は03年5月、30~50席のジェット旅客機の開発を決断した。事業の開発投資は総額1500億円と見積もり、国の補助金500億円を取り付けた。
蛇足だが、国が破格の資金拠出を決断したのは、2001年10月に東京都が「国がやらないのであれば東京都がやる」(石原慎太郎都知事=当時)と、アジアの主要国とともに100席クラスのリージョナル(地域間)旅客機を共同開発しようと、「アジア大都市ネットワーク21」の専門部会として「中小型ジェット旅客機の開発促進検討委員会」を立ち上げたのが刺激になったとの見方もあった。
三菱は開発準備に取り掛かったが、マーケティング調査をやり直した結果、05年4月に機体のサイズを70~90席に大型化するとともに、省燃費で高い経済性を持つ三菱リージョナルジェット(MRJ)のコンセプトにまとめていった。
最も重視したのは、高騰する燃費対策だった。空気抵抗の少ないスタイリッシュな胴体、米国メーカーP&W社が開発した出力に応じてギアを変える高効率エンジンを備え、燃料消費を既存機よりも2割改善。さらに、主翼には騒音を削減するJAXAの開発した新構造を採用し、炭素繊維の複合材を使用するなど、最先端のリージョナルジェット旅客機となった。ちなみに、競合機が同エンジンを採用する新型機計画よりも2年も先行していた。
このコンセプトは当時の課題に的確に応えるものだったが、スタイリッシュな胴体に拘るあまり搭載量に余裕がなく、貨物どころか乗客の手荷物を収納するのも精一杯だった。また、メディア上では「日の丸ジェット」の言葉が乱舞していたが、装備品の多くは海外メーカーの既存製品。調達数量が月に数個と少ないだけでなく、関係機関の認証が取れていることが重要だからだ。だが、これは三菱の意思は反映しにくく、コスト面でもマイナス要因となっていた。
08年3月に全日空が25機の購入を決めたことで三菱は正式に事業化を決定。投資資金を3500億円と見込み、本格開発に着手した。4月に開発・製造・販売を目的にした三菱航空機を設立し、11年初飛行、13年納入開始のスケジュールを発表する。販売では米国の地域航空会社などからの受注も入り始め、将来目標は20年間に2500機などという威勢のよい数字も飛び交うようになった。
当時の三菱は、自社技術への自信にあふれ、自前主義が貫かれていた。完成機ビジネスは未踏の事業であるにもかかわらず、「ジェット戦闘機さえ開発できる技術力をもってすれば、旅客機は十分つくれる」と判断しているかのように見えた。
外部が異変を最初に知ったのは09年9月だった。主翼に採用する予定の複合材は製造コストがかさむので既存材料に変更するが、主翼の設計をやり直すため、納入開始を14年4~6月に延期することを発表する。
15年11月には初飛行に成功したが、新たな課題が次々と浮上した。そこで飛行試験機の数を増やし、飛行拠点を天候が安定している米国に移して飛行時間を稼いだが、深刻なのは、型式証明の取得が見通せないことだった。そこで、自前主義の方針を捨てて経験豊富な外国人技術者を大量に採用し、課題の解決のスピードアップを目指したが、主要部品の仕様変更、ソフトウェアの改修などでスケジュールの後ろ倒しは6回も続いた。
一方、航空業界では、原油価格の落ち着きとともに、機体に対する要望が変化した。多少、燃費が落ちても貨物も積みたい、将来の代替燃料(SAF)に対応してほしいなど、時間経過とともに要望が変ってきたのだ。イメージ刷新を図り、客室空間の広さをアピールするため、19年6月に名称を「スペースジェット」に変更したが、20年前の機体コンセプトを変えることはできなかった。この間に最大のライバルだったブラジルのエンブラエルは主力のプロペラのリージョナル機にP&W社製の新エンジンを採用したジェット化を成し遂げてベストセラー機に仕立て上げた。さらに、中国も70席と150席クラスの2機種の開発を終えていた。
泉澤社長は、事業中止を発表した2月の記者会見で、「技術があったから試験飛行までたどり着けたが、その技術を採算にのせて事業にするための準備と知見が足りなかった」と述べた。だが、三菱に代わってSJ事業を引き受ける企業は国内に見当たらず、完成機ビジネスに関われるチャンスはアジア主要国との共同開発しかないが、その可能性は低い。
一方、完成機ビジネスの機会を失った三菱の期待は、これから次期戦闘機の開発に向かうが、次期戦闘機は英国、イタリアとの共同開発になったことで、三菱の主導できる分野は限られそうだ。
SJ事業の断念は、日本の航空機産業の悲願である「下請けからの脱却」の道を開けなかったばかりか、日本の未来産業実現への夢も砕いてしまった。
杉浦一機(すぎうら・かずき)東京都立大学客員教授。利用者の立場に立つ航空輸送の評論がモットー。参議院運輸委員会調査室客員調査員、経産省産業構造審議会臨時委員、福岡空港調査委員会委員、東京都の航空・空港関連委員会委員などを歴任。著作「日本の航空技術」「檄安エアラインの時代」(平凡社新書)、「間違いだらけのLCC選び」「JAL再建の行方」(草思社)、「JALvsANA」「航空運賃のカラクリ」(中央書院)、「墜ちない飛行機」(光文社新書)、「こんなに違うJALとANA」「日本の空はこう変わる」「進む航空と鉄道のコラボ」(交通新聞社)など多数。
最終更新日:2/20(月)12:28 時事通信