大阪名物として知られる「串カツ」。小説『法善寺横丁』で有名な作家、1904(明治37)年大阪生まれの長谷川幸延によると、現在「串カツ」と呼ばれている食物は、昭和初期の大阪では違う名前で呼ばれていました。
頭に数字の2をつけた「二カツ」と呼ばれていたのです。
“二カツ──。一串二銭の串カツである。縦六センチ、横四センチぐらいかナ。お稲荷さんの幟(のぼり)みたい。が、立派に牛肉である。それ一本が二銭なのである。”
「二カツ東京屋」は次第に繁盛し、創業6年後の1932(昭和7)年には、十三に立派な店舗を設けるまでになりました。二カツ=串カツは見事に、大阪に定着したのです。
■「二カツ東京屋」の名前の由来
梅田発祥との噂のあった二カツ=串カツ。しかしながら串カツは、梅田発祥でも大阪発祥でもなかったのです。
大阪の串カツ元祖「二カツ東京屋」の名前の由来は、松下氏の出身地東京に由来するもの。松下氏は大正時代初期に東京から大阪に移住し、当時東京で流行していた串カツを持ち込んだのです。
その中で、儲かる新商売として串カツ(フライ)屋が紹介されています。
“次は即ち牛肉のフライ屋で之は東京では到る處に見受けるが、大阪にては未だ之を見ぬ”
大正初期に東京において流行していた「牛肉のフライ屋」は、この時点ではまだ大阪に伝わっていなかったのです。
“此商売は前にも述べた如く、大阪京都には未だ始めて居るものがない。依っていずれの地にても適するから、関西に於て開始したならば、珍らしくて中々流行すること請合だ”
ソース共用、二度漬け禁止ルールも、江戸時代の東京(江戸)で生まれた屋台料理、握り寿司や天ぷらの伝統から生まれたもの。
東京の握り寿司屋台では、大きな丼に醤油を入れ、そこに手で持った寿司を漬けて食べました。
天ぷら屋台では、箸でつまんだ天ぷらを共用の丼の天つゆに漬けて食べました。
■東京の屋台文化から生まれたものだった
いずれも二度漬け禁止。東京人にとってソース共用二度漬け禁止はおなじみのルールだったのです。
最終更新日:9/29(木)12:21 東洋経済オンライン