ボンカレー生んだ 2代目の執念

1968年に大塚食品が生み出した世界初の市販用レトルト食品「ボンカレー」は日本の食文化にカレーとレトルト食品の両方を浸透させた立役者といえる。お湯で温めるだけで「誰でも、簡単に、すぐに食べられる」を実現したレトルト食品は日本だけでなく世界の食品マーケットを大きく変えた。世界初の市販用レトルト食品はなぜカレーだったのか。ボンカレーの誕生ストーリーをひもとくと、開発と事業化の間に横たわる「死の谷」を乗り越えたイノベーションがみえてくる。

 大塚食品は4月、ボンカレーのブランドサイトを新たに開設した。公式アンバサダーにタレントの乙葉さんを起用し、ボンカレーが家庭の中でどのように愛されてきたかをストーリー仕立てにしたスペシャルムービー「しあわせを、ほおばろう。」編を公開。家族とキャンプに出かけて食べた子供時代や、少し家族と距離ができて一人で食べた学生時代、一人暮らしを始めると親が送った小包に入っていた社会人時代――と、家族の中にあったボンカレーの姿を描いた。

 「ブランドメッセージは『ずっと家族のまんなかに』。コロナ禍の『巣ごもり需要』もあって、ボンカレーブランドの売れ行きは全体で前年同期に比べ約2けた増となっています。ボンカレーは、消費者がホッとする、心が温かくなるという情緒的なつながりを感じる点に価値がある。そんなコミュニケーションを今こそ強化したいと考えました」

 大塚食品でボンカレーを中心にレトルト食品全体のマーケティングを担当する製品部食品・飲料事業食品課の伊藤征樹課長兼レトルト担当PM(プロダクトマネジャー)は、ブランドサイトを立ち上げた経緯をこう説明する。

 ボンカレーの主な購買層は今、子供がいる30~50代の主婦を中心に、6割が女性という。自らが食べるというよりも、普段はあまり料理をしない子供たち、もしくは料理にうといパートナーが「いつでも、すぐに食べられるように」と考えて購入する層が多いようだ。レトルトのカレーという商品は、家族への思いやりが形になった商品だといえるのかもしれない。

 沸騰したお湯で温めると、誰でも簡単に、失敗せずに食べられる「レトルトカレー」。2003年からは箱ごと電子レンジで温められるように改良した。

 その始まりは、最初の東京五輪が開催された1964年にさかのぼる。大塚グループはこの年、経営が低迷していたカレー粉や即席カレールーのメーカー、シービーシー食品工業(大阪市)を傘下に置いた。

 すでにカレーは洋食の「花形」として人気メニューの一つになっていた。それだけに競争相手も多く、大塚グループでは「他社と同じカレー粉やルーを作っていたのでは勝ち目がない」と考えた。開発の中心にいたのは、大塚ホールディングス前会長の大塚明彦氏だ。

開発フェーズで明彦氏が目を着けたのは、米国のパッケージ専門誌に掲載された「ソーセージの真空パック」だったという。缶詰に代わる軍用携行食として、お湯で温めるだけで食べられるソーセージ。その写真を見て、「これをカレーに応用できないか」と明彦氏は発案した。

 当時27歳だった明彦氏は、60年に大塚に入社して5年目。大塚製薬の実質的創業者だった大塚正士(まさひと)氏の長男だ。父が製薬会社のトップとして「オロナイン軟膏」(発売は53年)や「オロナミンC」(同61年)をなどの消費者向け商品を生み出してきた姿を見てきた。「何か新しいものを作らないと」というイノベーター気質は、父と同様に備わっていただろう。

 ただ、商品づくりは難航した。大塚グループには長年培ってきた点滴注射液の殺菌技術があった。これを応用してレトルト食品を作ろうとした。レトルト食品は食材をパウチ(包材)に入れて加圧・加熱することによって、食材内に含まれる微生物を殺菌する。加熱するとパウチの中身が膨らむので、それを防ぐために加圧する。そうやって殺菌されるからこそ常温でも長期保存が可能になる。

 だが、具材入りのカレーを入れた状態での加圧・加熱はなかなかうまくいかなかった。本格的なレトルト釜がなかったせいで、開発チームが自作したものだったうえ、パウチに用いた樹脂素材が弱く、当初は何度も破裂したという。

 試行錯誤を続けた結果、ポリエチレン樹脂とポリエステル樹脂を2層に重ねて加工したパウチを開発。これでようやく完成したかと思ったが、まだ強度が不十分で、輸送途中でパウチに穴が開くことも珍しくなかった。

 そういった「弱み」を抱えていた事情から、ボンカレーが発売された68年2月からの1年余りは、輸送先は阪神地区に限定されていた。積層構造で半透明のパウチは光と酸素に触れると風味が失われがち。賞味期限は冬場が3カ月、夏場が2カ月と、今(1年間、沖縄限定商品は別)よりは格段に短かった。

 保存料を使わずに、常温で長期保存が可能な食品を目指し、開発陣はパウチの改良に取り組んだ。包材メーカーの協力も仰いで、ポリエチレンとポリエステルの間にアルミ箔をはさみ込む3層構造のパウチを生み出した。アルミ箔が挟まることで光や酸素も遮断できるため長期保存が可能になり、賞味期限を季節に関係なく延ばせたという。

 この「アルミパウチ」も世界初の採用で、輸送中の穴あき破損問題も解決。ボンカレーは69年5月、ようやく全国販売となった。

 ちなみに商品名の「ボン」はフランス語の「BON(よい、おいしい)」から取られている。素直に「おいしいカレー」という意味を込めたネーミングだ。

お湯で3分温めれば食べられる世界初のレトルトカレー。画期的な商品ではあったが、当初は小売店の反応が鈍かった。常温で長期保存できる点が「防腐剤や保存料がたくさん入っているのでは」と勘繰られたのだ。しかも価格は1個80円。当時、市場価格が25~35円だった袋めん(インスタントラーメン)と比べても高く感じられたのだろう。

 だが、時は高度経済成長のまっただ中。仕事に忙しい家庭が増え、核家族化が進み始めて、「個食」の需要も出始めた。家庭向け袋めんの販売数が急増したように、「手早く簡単に食べられる」というニーズは確実に高まっていた。

 テレビを中心に広告メディアが時代を席巻していく中、大塚食品もボンカレーで広告戦略に打って出た。これが普及に道を開いた。

 最初の広告キャンペーンは、人気女優の松山容子さんを起用して、街中に掲げたホーロー製の看板だ。ボンカレーは100%牛肉を使い、国産野菜も入れた。特に当時、牛肉は高価な食材で、なかなか食べられないぜいたく品の一つでもあった。看板に「牛肉 野菜入り」と文字を入れて高級感をアピール。営業担当者が全国を駆け回って、街角に看板を掲げてもらう作戦に出た。

 65年に発売した炭酸栄養ドリンク「オロナミンC」でも、俳優の大村崑さんを起用して「元気ハツラツ!」のコピーを掲げたこうしてホーロー看板を広告メディアに育てていった。

 ボンカレーの広告は、大塚グループにとって第3弾の「ホーロー看板作戦」だったといえる。約20人しかいなかった営業担当者が北海道から沖縄まで、1日50~60軒の小売店を訪ね歩いたという。「毎日15枚の看板を掲げることがノルマだったそうです」(伊藤氏)。

 普及の決め手になったのは、72年から始めたテレビCMだ。当時、劇画作品をテレビドラマ化して人気だった「子連れ狼」の主人公・拝一刀を模したパロディーCMには、落語家の笑福亭仁鶴さんを起用。「じっと我慢の子であった」のナレーションや「大五郎、3分間待つのだぞ」のせりふは流行語にもなった。

 このテレビCMがヒットして、「手軽に食べられるレトルトカレー」の認知は全国に浸透した。翌73年、年間販売数は人口に匹敵する1億食に達し、ボンカレーは「国民食」の地位にのぼりつめた。

(ライター 三河主門)

最終更新日:6/23(水)20:00 NIKKEI STYLE

引用:https://news.yahoo.co.jp/pickup/6396765

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