「岩下の新生姜」で知られる岩下食品(栃木県栃木市)は、1990年代にCMで話題になりましたが、1998年をピークに売り上げが年々下がりました。4代目社長の岩下和了さんは父から後を継いで、前時代的だった組織を改革。新生姜ミュージアム開設などの斬新なマーケティング手法で消費者のハートをつかみました。
――入行から4年後の93年に、家業の岩下食品に入りました。
銀行では、いい上司にも恵まれ楽しくやっていましたが、実家の動きが急だったので戻ることになりました。前年の92年、「岩下の新生姜」のテレビコマーシャルを開始し、一気に会社の知名度が広がり、大卒の新卒採用が始まりました。
それまでは、地縁血縁が中心の採用でした。田舎の商店を経営する分には問題はなくても、名の知れた商品を作る会社は、社会的な視線にさらされます。CMで有名になったというだけで、内実が今までと変わらないなら、新しく入社した人たちとのギャップを生んでしまいます。
父には、大量採用した人たちを育て、企業としての戦力にするのは難しいと思いました。「一歩間違うと、大けがして会社が潰れる可能性もある」という危機感を抱きました。母親が病気がちになるなど複数の理由が重なって、戻ることにしました。
――どう会社を変えたのでしょうか。
地縁血縁で採用していたような会社なので、組織もルールもありません。「俺がルールブック」という世界でした。父親だけがルールブックなら、まだいいですが、専務の叔父(既に退職)との間で、言うことが違っていたのです。
そこで、目標への貢献が公正に評価され、納得感のある査定につながるよう、目標管理と人事評価制度を構築しました。それまで、ほとんどトップが鉛筆をなめて決めるようなやり方だったので、資格・役職の制度を整理し、実効性のある賃金表を作り、人事考課面接を行うなどの仕組みを整えました。
業務面においては、整っていなかった社内ルールの整備に向けて、ISO9001の認証取得に取り組み、その後の基盤となっていきました。それまでろくに社内ルールのマニュアル化ができていなかったからです。企業としての仕組みを整えることで、社員が安心して、やりがいを持って働ける環境を作ることが、CMを通じて社会の公器となった会社には必要だと思い、改革を進めました。
とはいえ、社員の側に立って動いても、ポジション的には経営者側で父親に近い。当時としては、独裁的封建的ではない考え方を持っているということで、社員は私に期待してくれた一方、後継ぎでもあるというダブルバインドを感じていました。
――改めてお父様との関係について、どのように振り返りますか。
私が社長で代表権をもらって筆頭株主でいながら、父の考えを完全に切り捨てることができませんでした。私も遠慮してしまったのが実態なのです。自分の気持ちにブレーキがかかっていることを、社員は敏感に察知するから、思い切って改革を進められない。14年に父が亡くなるまで、中途半端な時代を過ごしてしまいました。
一番の対立は、組織・人事系に関することでした。社員にできるだけ任せることでやりがいと成長を促そうとした私の試みは、組織の肥大化や間接職の膨張という結果も副次的に生んでしまった。一方で、売り上げは回復せず、業績にも影響し、父との諍いの種となりました。
今は、権限移譲を進めつつも、コンパクトな組織に回帰させ、安心安全な商品を製造するためのルールも組織の血肉となりました。また私も前線に立つことで、商品の将来が展望できるようになっている。父との対立は、幾つもの伏線で、それをいつの間にか回収していくドラマとなっています。
父が最期に言いたかったことは、「お前のやりたいようにやれ」ではなく「会社を頼んだぞ」だったと思います。自分の生命はここで終わってしまうけど、会社や商品は生き続けてくれという気持ちをもって亡くなりました。
ただ、私はそれを思い出さないようにしています。裏切っているような気持ちはあるけれど、幸い、父が生み出した「岩下の新生姜」を新しい時代につなげることができ、命がけで守っています。今は好き勝手にやっていると自分では思うようにしているけれども、その土台も父が生んだものなんです。 複雑な気持ちですね。
商品が愛されて支持されているなら、残す努力をしなければならない。ただ、組織体や屋号として続くことには意味がないと考えています。
※後編は「岩下の新生姜」の売り上げをV字回復させたSNSの活用や、「岩下の新生姜ミュージアム」の設立など、岩下さんが進めた独自のマーケティング施策に迫ります。
最終更新日:6/6(日)8:16 ツギノジダイ