家政婦志麻さん 空回りの過去

〈本日11月6日の「あさイチ」に登場!〉オファーのあった家庭を訪れ、契約時間の3時間内で15品ほどの料理のつくりおきを仕上げて、片づけまで──。その驚異の手際のよさと、本格派の料理が話題を呼び、「予約がとれない伝説の家政婦」と注目を集めたタサン志麻さん。しかしこの仕事に就くまでの道のりは、決してまっすぐなものではありませんでした(構成=山田真理)

帰国後、私は自分が惚れ込んで学べるレストランとの出合いを求めて、さんざん食べ歩きます。最初に働いた店は、名店として名高いレストランでした。ここで、尊敬するシェフから素材はもちろん、塩加減、火加減、味のバランス、市場での野菜や魚の選び方、水やガスも無駄にしない心がけまで、あらゆることを教わったように思います。

少しでも早く成長したくて夜も休日も店に一人で残り、睡眠時間は毎日3時間程度。ボロボロのアパートに住み、給料のほとんどを料理の本やフランス語のレッスン、映画や音楽、美術などフランス文化を知るための勉強に費やしました。実家にもほとんど帰省せず、たまに帰っても、分厚いフランス語の辞書を引きながら料理の本を読んでばかりいる娘に、両親もきっと呆れていたと思います。

でも、一所懸命に働けば働くほど、同僚と自分との温度差を感じるようになりました。料理に夢中になるあまり、自分のスタンスをまわりに押しつけ、どうしてもっと勉強しないんだろう、と考えては、一人で空回りしていく──。

同時に、当時流行していたフランス料理のスタイルが、自分のつくりたいフランス料理とはなにか違う、という得体の知れない違和感もどんどん膨らんでいきました。3年働いて、私はお店を辞めました。

はじめて味わった挫折の反動は、ことのほか大きかった。一度は料理の現場を離れてみたものの、知人に人気のビストロを紹介されて、再び料理人として働くことになりました。

シェフが手掛けるのは、留学時代にフランスの各家庭で食べたような、シンプルで飾らない料理。「そうそう、こういうことがしたかったんだ」と嬉しくなった私は、ここでも朝から晩まで脇目もふらずに働きました。

シェフの作業を見て、必死に記憶し、その味を再現するのはとてつもない集中力のいる仕事です。ここでも、まわりの人の意欲が足りないように感じられて、私はシェフに「2人で働きたい」と伝えました。

当然、シェフの仕事量も増えるのに、シェフは私の気持ちを受け入れてくれて、私はますます必死に働くようになりました。手のしびれや気管支喘息といった身体の不調に次々襲われても、それでも私はここで働くことが楽しかった。一方で、かつて抱いた「なにかが違う」という違和感を、ここでも拭い去ることができませんでした。

皆さんには、フランス料理は堅苦しい、高い、マナーが厳格……というイメージはありませんか。最初に働いたレストランは、服装やマナーを気にせずに食事を楽しめる店ではありませんでしたし、2軒目のビストロはカジュアルなスタイルとはいえ、やはりワインを料理に合わせて、といった暗黙のルールがありました。

私は山口県の田舎で生まれ育っています。フランス料理がそういう田舎の人たちまで気軽に楽しめる料理かと聞かれれば、違うとしか言えなかった。子どもも入店できないし、すべての人が楽しめる料理ではない気がして、それがとても寂しかったんです。私が料理に求める「あたたかさ」が、ここにはない。「家庭料理をつくりたい」という自分の思いには気づいていましたが、レストランで提供する、という仕組みに疑問を感じている以上、働くことが日に日に苦しくなりました。

誰より身近に感じていたはずのシェフにさえ相談できない。10年働く間に、私は精神的にどんどん追い詰められていきました。そして──これは本当にやってはいけないことなのですが──ある日突然「長い間お世話になりました」という置き手紙をして、私は店を辞めてしまったのです。

このままフランスに行こうと思いましたが、生活費以外のお金をすべて勉強に注ぎ込んでいたため、貯金がありません。フランス文化に触れながら渡航費を貯めるため、アルバイトで入った飲食店で出会ったのが、夫のロマンです。両親は、これまでめったに連絡もよこさなかった娘から、突然「15歳年下のフランス人と結婚する」と知らされて、さぞやびっくりしたことと思います。

料理人の世界は、いまも男社会です。それは文字通り、体力勝負の世界だから。朝から晩までの立ち仕事、休みもない生活が続くので、子どものいる女性が働けるような環境ではありません。料理人時代は、私も「一生独身なのだろう」と考えていました。

それが35歳で結婚することになり、年齢的に出産も考えなくてはならない。そのとき、この先自分ができる仕事はなにか、を真剣に考えました。妥協ができない自分の性格を考えると、再びレストランで働くのは難しい。妊娠中も出産後も続けられる料理の仕事で、いままでの経験を活かせて、フランスの家庭料理が学べて、フランスとずっと関われて……。

頭に浮かんだのが、フランス人の友人がやっていたベビーシッターでした。いまはもう使っていませんが、家事代行のマッチングサービスに利用登録をしたのが、いまの仕事への第一歩です。

つくりおきのブームがくる前は「料理だけ」というオーダーが少なくて、当初は掃除がメイン。料理の依頼が少しずつ増えてきたころ、お惣菜にフランスの家庭料理をプラスしてみたら、「こんな本格的な味を家で楽しめるなんて」といった感想をいただけるようになりました。特に嬉しかったのは、「子どもが大喜びです」「おばあちゃんはお箸でいただきました」「麦茶にもビールにも合いますね」と、思い思いに家族でフランス料理を楽しんでくれている様子が伝わってきたことでした。

家政婦の仕事は、移動時間も考えると、1日最大で3軒が限界。正直それほど収入が多いわけではありません。でも、そもそも料理人の給料も高くはなかったですし(笑)、いまの住まいは築60年の一軒家を月5万円台で借りて、リフォームしながら住んでいるくらいなので、たぶん、あまりお金を使わない生活が身についているんだと思います。

実家は共働き家庭でした。看護師だった母は毎日忙しく働いていたけれど料理が得意で、幼いころから私に包丁を持たせてくれました。母の姿を見ていたので、女性であっても働き続けるのは当たり前と思って育ちましたし、フランスでは女性の就業率は8割以上ですから、ロマンも私の仕事をいつも応援してくれます。

私は18歳でフランス料理に出合い、フランス人から「食べる、つくる」を楽しむことを教わりました。素敵だなあと感じたそのときから、フランス料理への思いはまったく変わっていません。料理人を辞めたあと、ケータリングのシェフとか、ほかにも仕事の選択肢はあったかもしれません。でも、ハレの日の食事ではなく、「日常の食事づくり」にこだわりたかった。レシピとか、料理の技術といったことより、食事を楽しむことの大切さを伝えていきたい。その一心が、いまの仕事に繋がったんだと思います。

あんなに勉強して、働いて、すべてのお金と時間を、フランスを知ることに費やして。それなのに「なんで家政婦なのかな」「なんで私は掃除しているんだろう」と思ったことがないと言えば、嘘になります。最初のころは、掃除中に泣きそうになったことも何度もあって、家政婦をしていることを、夫以外の誰にも話せませんでした。

かといって、私がレストランの世界に残りたかったかと言えば、それは違うでしょうね。レストランで働く人の最終的な目的は、やっぱり自分のお店を持つこと。でもそういう夢を、私はみんなのように抱けなかった。その苦しさをうまく言葉にできず、伝えることも相談することもできなかった。

テレビ取材の話がきたとき、最初は抵抗がありました。勤めていた店を裏切るような形で辞めているので、関わった人すべてに顔向けできないという気持ちは、いまも変わっていません。

ただ番組の反響を受けて、家政婦への世間の見方が変わったことはよかったと思っています。周りに頼れる人もなく、仕事から慌ただしく帰ってきて食事の支度をし、食卓を家族と囲む時間も持てずに、ほかの家事をして。そんなご家庭を私たち家政婦がちょっとお手伝いするだけで、「久しぶりに、家族で食事を楽しむ時間が持てました」と喜んでいただける。

料理人時代の私は、朝から晩まで働きづめで、世の中の人がどんな生活をしているか、興味も、知る機会もありませんでした。なにも知らずに「フランス料理をゆったり楽しんでほしい」なんて言っていたのか、と家政婦になって気づいたことはたくさんあります。

でも、こうして悩み、数々の挫折をしてきた自分の生き方を、いまはようやく受け入れられるようになりました。生まれ変わっても、またいまの仕事がしたいと思っています。

最終更新日:11/6(金)12:48 婦人公論.jp

引用:https://news.yahoo.co.jp/pickup/6375725

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