韓国サムスン電子が転換点に立っている。スマートフォンやテレビ、半導体メモリーなど世界首位の製品群をそろえ、時価総額52兆円はトヨタ自動車の2倍超とアジアを代表する巨大企業となった。だが、その背後には今、中国の影が忍び寄る。中興の祖、李健熙(イ・ゴンヒ)会長が2020年10月に死去し、その長男で現トップの李在鎔(イ・ジェヨン)副会長は21年1月に再収監が決まった。巨艦サムスンはどこへ向かうのか。
かつて日本企業から技術を貪欲に奪い取ったサムスンが、技術を奪われる側に回る。ただサムスンも手をこまぬいているわけではない。
「飲み会の店の地図を印刷しただけなのに」。サムスンの研究所に勤める男性技術者は、退社時にゲートで警備員に呼び止められた。問題視されたのは会食場所の地図を印刷した紙だった。社内の複合機で使う印刷用紙には特殊な金属箔が埋め込まれ、探知機が反応する仕組み。社員が無断で技術情報を印刷して持ち出せないように導入された。
研究所や工場内で従業員のスマホの撮影・録音機能を無効化するのは当たり前。印刷用紙にまで漏洩防止策を講じ、社員を介した情報流出防止を徹底する。新型コロナウイルスの感染拡大にともなって韓国政府が在宅勤務を推奨した際にも、サムスンは技術情報の持ち出しを伴う在宅勤務は認めなかった。
ただ、どれだけ対策を徹底しても、世界で28万7000人の社員一人ひとりの行動を縛るのはできない。端的な例が転職だ。
「勤務地=中国内陸部、応募要件=ディスプレー関連企業出身者」――。韓国の求人サイトには、こんな文言が並ぶ。なかには「S社L社優遇」といった文言もある。Sはサムスン、L社はLGを指す。「3年間、年俸3倍」といった厚待遇で引き抜かれるケースも少なくない。激しい出世競争に脱落した技術者らを狙ってのスカウトも横行する。
中国最大手のパネルメーカー、京東方科技集団(BOE)内部の技術者によると、同社の工場や研究所には計120人ほどの韓国人が在籍する。サムスン出身の技術者も50人程度が加わっており、米アップル向けの有機ELパネル開発を主導する。彼らの多くが15~16年の業績不振時にサムスンを去った技術者たちだという。
その結果、BOEの成都工場には、韓国・牙山(アサン)市のサムスンディスプレー主力工場と同じ「コピーライン」が並ぶ。中国政府の補助金を使って買い集めた日本製の装置も多い。現在はiPhone向けの有機ELパネルの量産準備を進めており、本家サムスンのシェアを脅かす存在となっている。
中国で働く韓国人技術者らは中国名を名乗り、韓国当局や出身企業の捕捉を振り切ろうとする。休暇などで帰国する際には、わざわざ香港や上海などを経由するという。直行便を避ける理由は「(韓国の)仁川空港の入国審査で当局に拘束されるのを警戒するため」(BOEの技術者)だ。就航便数の多い路線を使って一般のビジネスマンを装うという。
サムスンや政府当局は技術流出阻止の網を張るが、技術者の転職を防ぎ切れていないのが実態だ。
さらに20年には経営幹部の中国行きも明らかになった。一時はサムスンとソニーとの液晶合弁の社長も務めた張元基(チャン・ウォンギ)氏が、BOEトップの王東升氏に請われる形で中国のディスプレー向け半導体メーカーの副会長に迎えられた。
張氏の転職は韓国国内で報じられ、結果的に張氏は辞職することになった。韓国メディアによると、張氏は「サムスンとは競合しないという条件で(中国行きを)受け入れた。ただ母国で(技術を流出させているという)誤解が広がり負担だった」と打ち明けたという。
金曜夜出国、日曜夜帰国の日程で、土曜と日曜午前に技術指導にあたる。土曜夜は韓国式の接待を受け、1回の渡韓の報酬は50万円だった。なかには100万円を超える「特級人材」もいたという。韓国での週末バイトを阻止しようと、技術者のパスポートを預かる日本企業もあった。
サムスンは半導体メモリーやディスプレー、テレビ、スマホで次々と世界首位に躍進した。コロナ禍でも20年通期決算では売上高22兆2000億円、営業利益3兆4000億円を稼ぎ出した。
今やサムスンの時価総額は52兆円(5日終値時点)と世界12位。日本最大のトヨタ自動車(25兆円)の2倍超で、ソニーや日立製作所、パナソニックなど日本の電機大手8社の合計(35兆円)でも太刀打ちできないほど差が開いた。
ただ盛者必衰の理(ことわり)からはサムスンも逃れられない。同社の事業構成を見ると、売上高の38%をスマホが占め、半導体(28%)、家電(18%)、ディスプレー(12%)と続く。これらはすべて中国企業が存在感を増す領域でもある。
李健熙氏は「今後10年でサムスンを代表する製品は大部分がなくなる」と話し、かねて中国企業を脅威と捉えていた。いったん劣勢に回れば技術は奪われ、雪崩を打って衰退していくことを日本企業の観察から学んだサムスン。だからこそ競争力の源泉である先端技術を、国家権力と共に守ろうとしているのだ。
足元では米国の制裁によって中国の半導体国産化はいくぶん足踏みを強いられている。ただ家電や液晶で起こった技術覇権の変遷は、いずれ半導体や有機ELパネルでも起こる可能性が高い。サムスンは後続を上回る速度で技術革新を先導し続けられるだろうか。模倣から創造へ、サムスンは変われるか。
最終更新日:2/13(土)10:30 日本経済新聞 電子版