後輪が隠れた車 なぜ廃れた?

クルマの魅力や個性の源のひとつとなるのがデザインです。そうしたクルマのデザインの中で、非常にユニークなものに「後輪のカバー」があります。通常のクルマは、前後のタイヤの形にあわせてボディ側面が開いているものですが、あえて後輪を覆ってしまうデザインで、このカバーは「スパッツ」や「スカート」と呼ばれることもあります。



 日本車で後輪のカバーを採用するのは、多くの場合レーシングカーで、量産車に採用されることはめったにありません。平成以降のモデルで後輪カバーのデザインが完全な形で採用されたのは、1999(平成11)年に登場したホンダの初代「インサイト」くらいでしょう。また、2016(平成28)年登場のホンダ「クラリティFUEL CELL」や、2018年の「クラリティPHEV」も、後輪の上がわずかながらカバーされており、これも後輪カバーの一種と言えなくもありません。とはいえ、他の日本車メーカーから後輪カバーのデザインが採用された量産車は、平成以降では、ほぼ販売されていません。

 一方、海外に目をやれば、古いアメリカ車やフランスのシトロエンなどでは、そうした後輪カバーを採用したクルマが数多く売られていました。なぜ、日本車には少ないのでしょうか。

 後輪のカバーは外すこともできますが、確かにタイヤ交換がしにくくなります。しかし、実際にタイヤ交換を年に何度も行う人は、ほとんどいませんし、ショップなどに任せず自らタイヤ交換を行う人は、さらに少数派です。そういう意味では、後輪カバーが日本車に少ないのは、不便さだけではないと言えます。

 では、日本車に少ない理由は何なのでしょうか。その答えは、後輪カバーの歴史にあると言っていいでしょう。

このように、第2次世界大戦を挟んだ1930年代から1960年代にかけて、後輪カバーを含む流線形の空力デザインが一世を風靡しました。

 ただし、流行とは、波が大きければ大きいほど、反動も大きくなるものです。また、高速で走行するレーシングカーと異なり、一般道を走る量産車は速度域が低いため、後輪カバーによる空力向上のメリットは、ほんのわずか。速度アップや燃費向上への貢献は、微々たるものでしかありません。そのため、1970年代になると、流線形の空力デザインのブームはあっという間に沈静化に向かいます。

 そうした流行の変化は、当然、日本にもおよびました。ちょうど日本で本格的に国産車が生産されるようになるのは1960年代から。もちろん、走行する速度域は低いこともあり、日本ではテールフィン・デザインの流行も、ごく短期間に終わってしまいました。

 では、沈静化の後、流線形の空力デザインが消えてなくなったのかといえば、そうではありません。まず、レースなどリアルに空力性能を追求する場では、後輪をカバーするデザインは、現在まで消えることなく生き残りました。また、量産車としては、“先進イメージ”を付与するアイテムとして、同様に存続します。

 その“先進イメージ”の例のひとつが、1948(昭和23)年発売の「2CV」から「DS」シリーズを経て、1980年代に大人気となった「BX」まで、後輪カバーのデザインを採用し続けたシトロエンです。1955(昭和30)年に発表したDSシリーズは、空力デザインを追求した結果、「まるで宇宙船ようだ」と大絶賛されます。現在は、“カジュアルでおしゃれ”というイメージのあるシトロエンですが、1980年代までは“先進性”で売る、非常に尖ったブランドでした。そのブランド・イメージの醸成に後輪カバーのデザインは大きく貢献したのです。

 一方、日本の自動車メーカーは、シトロエンほど尖った“先進イメージ”を求めなかったのかもしれません。そうしたなかで登場した1999(平成11)年の初代「インサイト」も、先行発売されていたトヨタの世界初のハイブリッドカー「プリウス」に追いつくために生まれた、ホンダ初のハイブリッドカーでした。つまり、なによりも先進性が求められていたのです。

 そういう意味では、この先、後輪をカバーするクルマが新たに生まれるとすれば、これまでにない高い先進性が求められるとき。どんな先進のクルマに採用されるのか、楽しみです。

最終更新日:2/11(木)18:29 乗りものニュース

引用:https://news.yahoo.co.jp/pickup/6384799

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